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カルタゴ(羅:Karthago、英:Carthage)は、現在のチュニジア共和国の首都チュニスに程近い湖であるチュニス湖(en:Lake of Tunis)東岸にあった古代都市であり、現在は歴史的な遺跡のある観光地となっている。

「カルタゴ」は、フェニキア語のカルト・ハダシュト(Kart-Hadasht=「新しい町」)に由来し、カルタゴ語では母音を抜いてQrthdstと綴る。アラビア語表記は قرطاج 

カルタゴ建国伝説
古代ローマの詩人ウェルギリウスの「アエネイス」によると、ティルスの女王ディドが兄ピュグマリオン(en:Pygmalion of Tyre)から逃れてカルタゴを建設したとされる。古代ギリシアやローマの歴史家らの史料では紀元前814年頃、トロイ戦争(紀元前12世紀頃)前や紀元前820年頃に夫々建国されたという記述があるがいずれも裏付は無い。ちなみにチュニジア政府は1987年に「カルタゴ建国2800年祭」を行っており、「紀元前814年」が一般的にカルタゴ建国年と見做されている。なお、カルタゴ遺跡からの出土品では紀元前8世紀後のものが最も古い。

カルタゴの建国に関して確実なのは、ティルスを母市としたフェニキア人が建設したこと、ティルスと同じ「メルカルト」(en:Melqart)が町の守護神であったこと等に過ぎない。カルタゴは同じフェニキア系都市で先に入植されたウティカやガデスの寄港地として開かれたと考えられている。

カルタゴ創成期
地中海に面するカルタゴの初期は、農耕を営む者と海で働く者との長い闘争の歴史であった。都市は、主に交易で成り立っていたため、海運の有力者たちが統治権を握っていた。紀元前6世紀の間、カルタゴは西地中海の覇者となりつつあった。

商人や探検家たちは、広大な通商路を開拓し、そこを通って富や人が行き来した。紀元前6世紀前半、海洋探検家のハンノは北アフリカ沿岸のシエラレオネにまで辿りついたと推測されている。その後、シエラレオネは、マルカスという指導者のもと、アフリカ内陸と沿岸一帯に領土を拡大した。

紀元前5世紀初頭より、カルタゴはこの地域の商業の中心地となり、それはローマによる征服まで続いた。カルタゴは、フェニキア人の古代都市やリビアの諸部族を征服し、現在のモロッコからエジプト国境に至る北アフリカ沿岸を支配下におさめた。地中海においては、サルデーニャ島、マルタ島、バレアレス諸島を支配。イベリア半島に植民都市を建設した。

シチリア戦争
第一次シチリア戦争
カルタゴは海賊や他国が恐れる強力な海軍力を有していた。カルタゴの進出と覇権の拡大は、地中海中央部で確固たる勢力をもつギリシアとの対立を増大させた。 カルタゴの玄関口にあたるシチリア島が、戦争の舞台となった。ギリシアやフェニキアは、以前よりこの大きな島の重要性を認識しており、海岸線に沿って多くの植民都市や交易拠点を造っていた。 紀元前540年頃にはシチリア西半分の領有権を巡り、エトルリア人と組んで、ギリシア及びサルデーニャ人とアレリア沖(コルシカ)で海戦を行い勝利を収めたことが碑文に残されている。また、それ以外にもギリシアやシチリアとは長らく係争が絶えなかったとされる。

紀元前480年、カルタゴが大規模な軍事行動を開始した。事の発端は、ギリシアに支援されたシラクサの僭主ゲロンが、島を統一しようとしたことに始まる。この明白な脅威に対して、カルタゴはアケメネス朝と連携をとりながら、ギリシアとの戦争に踏み切った。ハミルカル将軍のもと、300,000人の軍隊が集められたと言われているが、この数字は大軍を示しているだけで実数ではないと考えられる。 しかし、シチリア島に向かう途中、悪天候に見舞われ、多数の人員を失った。その後、現在のパレルモにあたるパノルムスに上陸したが、ハミルカルは、ヒメラの戦い(en:Battle of Himera)でゲロンに大敗してしまった。ハミルカルは、戦闘の最中に戦死したか、名誉の自決を遂げたと伝えられている。 カルタゴは、この敗北により大損害を受け弱体化し、国内では貴族政が打倒され共和政に移行した。

第二次シチリア戦争
共和政による効果的な政策の結果、紀元前410年までには、カルタゴは回復を遂げていた。再び現在のチュニジア一帯を支配し、北アフリカ沿岸に新たな植民都市を建設した。また、サハラ砂漠を横断したマーゴ・バルカの旅行や、アフリカ大陸沿岸を巡る航海者ハンノの旅行を後援している。 しかし、同じ年、金や銀の主要産地であったイベリア半島の植民都市がカルタゴから分離し、その供給が断たれた。 ハミルカルの長男ハンニバル・マーゴは、シチリア島の再領有に向けて準備を始めた。版図を拡大するための遠征は、モロッコからセネガル、大西洋にまで及んでいた。

紀元前409年、ハンニバルはシチリア島への遠征を行い、現在のセリヌンテにあたるセリヌスやヒメラといった小都市の占領に成功して帰還した。 しかし、敵対するシラクサはまだ健在であったため、紀元前405年、ハンニバルはシチリア島全域の支配を目指して、二回目の遠征を開始した。 遠征は、頑強な抵抗と不運に見舞われた。アグリジェントの包囲戦の最中、カルタゴ軍に疫病が蔓延し、ハンニバルもそれにより亡くなってしまった。

彼の後任として軍を指揮したヒメルコは、ギリシア軍の包囲を打ち破り、ゲラを占領した。さらに、シラクサの新たな王ディオニシウスの軍も破ったが、ヒメルコもまた疫病にかかり、講和を結ばざるを得なくなった。 紀元前398年、力をつけたディオニシウスは、平和協定を破りカルタゴの要塞モーチャを攻撃した。ヒメルコはただちに遠征軍を率いてモーチャを救出し、逆にメッシーナを占領した。紀元前397年には、シラクサの包囲にまで至るが、翌年、再び疫病に見舞われ、ヒメルコの軍は崩壊した。 シチリア島はカルタゴにとっての生命線であり、カルタゴは固執しつづけた。以後60年以上にわたり、この島でカルタゴとギリシアの小競り合いが続くこととなる。 紀元前340年、カルタゴの領土は島の南西の隅に追いやられ、依然として不穏な情勢にあった。

第三次シチリア戦争
紀元前315年、シラクサ王アガソクレスは、現在のメッシーナにあたるメッセネを包囲した。紀元前311年には、カルタゴ最後の要塞を攻撃し、アクラガスを包囲した。 探検家ハンノの長男ハミルカルは、カルタゴ軍を率いて事態を打開し、好転させた。紀元前310年にはシチリア島のほとんどを占領し、シラクサを包囲した。 死に物狂いになったアガソクレスは、アフリカ本土にあるカルタゴを攻撃させるため、秘密裏に14,000人の兵士を送った。この作戦は成功し、ハミルカルの軍は本土に呼び戻された。紀元前307年、追撃してきたアガソクレスは敗れたが、シチリア島に戻り、停戦した。

エピロス王ピュロス
紀元前280年から紀元前275年にかけて、ギリシア・エピロス(ラテン語ではエピルス。現在のギリシャ共和国のアドリア海側)の王ピュロスは、西地中海におけるギリシアの影響力を維持し、拡大するために2つの大きな戦争を起こした。

一つは、「マグナ・グラエキア」と呼ばれた南イタリアにあるギリシアの植民都市に対するローマの攻撃に対抗するためのものであり、もう一つはシチリア島西部にあるカルタゴの領土を征服しようとするものであった。 しかし、ピュロスは、イタリア半島とシチリア島の両方で敗北した。カルタゴにとっては以前の状況に戻ったに過ぎなかったが、ローマはタレントゥム(現在のターラント)を占領し、イタリア全域を支配するようになった。 その結果、西地中海における政治勢力に変化が現れ始めた。シチリア島におけるギリシアの拠点は、明らかに減少する一方、ローマの強大化、領土拡大の野望は、カルタゴとの直接対決を導くこととなった。

メッシーナの危機
紀元前288年、シラクサ王アガソクレスが死去すると、彼の雇っていた傭兵たちはメッシーナの町を乗っ取った。彼らはマメルティニ (Mamertini、マルスの子らの意) と名乗り、恐怖政治を敷いた。 この集団は、カルタゴとシラクサにとって脅威となりつつあった。紀元前265年、シラクサ王ヒエロ2世は、カルタゴと共同してマメルティニを攻撃した。 その大軍に直面したマメルティニたちの意見は2つに分かれた。一方は、カルタゴへの降服を主張し、もう一方は、ローマの救援を仰ぐというものであった。結局彼らは、カルタゴとローマの両方に使者を派遣した。 ローマの元老院が取るべき道を議論している間に、カルタゴとシラクサの軍はメッシーナに到着した。完全に包囲されたマメルティニは、カルタゴ軍に降服した。メッシーナにはカルタゴの守備隊が置かれ、港にはカルタゴの艦隊が停泊した。 イタリア半島に程近いメッシーナにカルタゴの軍隊が駐屯したことは、ローマにとって明らかな脅威であった。そのため、消極的ではあったが、メッシーナをマメルティニの手に戻すためにローマはカルタゴと開戦し、軍隊を派遣した。

ポエニ戦争
ローマ軍が、メッシーナのカルタゴ軍を攻撃したことで、約1世紀にも渡るポエニ戦争が始まった。西ヨーロッパにおけるローマの覇権を確定し、もって西ヨーロッパの命運を決めることになったこの戦いは、3つの大きな戦争からなる。

第一次ポエニ戦争 (紀元前264年 - 紀元前241年)
第二次ポエニ戦争 (紀元前218年 - 紀元前202年)
第三次ポエニ戦争 (紀元前149年 - 紀元前146年)

ポエニ戦争では、ローマが常にカルタゴに勝利した。第三次ポエニ戦争によって、カルタゴは滅亡し、ローマの政治家・軍人である小スキピオの指示のもと、その都市は完全に破壊された。このカルタゴ陥落の際に小スキピオは自国ローマの未来を重ねたといわれている。 カルタゴが再び復活することがないように、カルタゴ人は虐殺されるか奴隷にされ、港は焼かれ町は破壊された。陥落時にローマが捕虜としたのは五万人にも上ったとされる。カルタゴの土地には雑草一本すら生えることを許さないという意味で塩がまかれたという通説があるが、これは定かではない。

ローマによる征服後
地味豊かで交易の要所でもあったカルタゴの故地には、カルタゴを滅亡させたローマによって新たな殖民市が造られた。最初の植民は紀元前122年に護民官ガイウス・センプロニウス・グラックスによって企画された。この計画はローマにおいてグラックスの進めていた改革の支持票を獲得するための人気取りの意味合いも強かった。この計画の結果コロニア・ユノニア(ユノ植民市)として新たな都市が造られたが、ローマでのグラックスの失脚に伴いその後大規模な植民が行なわれることはなかった。

2度目はガイウス・ユリウス・カエサルによって計画され、アウグストゥスによって実行された。ユリウス・カルタゴ植民市として再建された都市は、以降アフリカにおけるローマの最も重要な都市として位置付けられ、ローマ帝国の西方でローマに次ぐ第2の都市となった。ローマの再建した植民市は2度ともカルタゴとは異なった名がつけられたが常にカルタゴの名で呼ばれつづけた。

現在にまで残るカルタゴの遺跡のほとんどはこのローマ時代のものである。

近郊のタガステ(ティムガッド)出身のアウグスティヌスは青年期をカルタゴで過ごし弁論術を学んだ。クラウディウス帝は全8巻からなる「カルタゴ史」を書いたが、現在は散逸している。

ヴァンダルによる征服と東ローマ帝国による奪回
5世紀、ヴァンダル族の王ガイセリックが、東ローマ帝国の将軍バシリスクス率いる海軍を破り、カルタゴを占領してこの地方にヴァンダル王国を建国。カルタゴはその首都となった。

東ローマ帝国による奪回の試みは何度か失敗したのち、ようやく6世紀になって征服に成功した。ローマ帝国の復興を企図していた東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世は、533年に西ローマ帝国の皇女の血を引くヒルデリック王がその遠いいとこであるゲリメルによって廃位されたことを口実として、ベリサリウスを将軍とする軍隊を派遣した。ヴァンダル王国の軍隊はあっけなく敗北し、553年10月15日日曜日(9月14日という説もある)、東ローマ帝国軍は、カルタゴに入城した。略奪や虐殺は行わなかった。 こうしてカルタゴは再びローマ帝国の領土となったが、ムーア人の反乱が多発したため皇帝マウリキウスの時代に、カルタゴに総督府が置かれ、イタリア半島のラヴェンナ総督府と並んで、帝国の西方における重要拠点として組み込まれた。

610年、カルタゴ総督ヘラクレイオス(アルメニア人)の息子ヘラクレイオス(父子同名)は、時の皇帝フォカスを打倒し、自ら皇帝の座に就いている。 しかし、東ローマ帝国は、アラブ人の侵入を防ぐことができなかった。647年、ウマイヤ朝勢力がカルタゴを攻撃した。これは辛うじて退けたものの670年から683年にかけて、再び攻撃を受け、陥落した。698年には、アフリカ大陸にあった東ローマ帝国最後の拠点もウマイヤ朝が占領した。なお、イスラム勢力の占領したこの時期よりカルタゴの荒廃は進み、放棄された。

政治機構
カルタゴの政体についての判明事項は極めて乏しい。最も有力な手掛かりは紀元前4世紀の哲学者アリストテレスの著作「政治学」の中の記述であり、それによると以下の3つの特徴を持つ。
クレタ、スパルタとカルタゴの政体は非常に似ていること
「王政」「貴族政」「民主政」の長所を併せ持っていること
実質的に「貴族政」「寡頭政」であること
個別の役職について、国家の代表は一般的にスフェス(sufet、通例複数形でsufets、司法権と行政権を持った長官)と呼ばれ、ローマのコンスル同様に1年任期であった。(語義はセム語の「ショフェト」(判事、裁判官の意)であり、ローマの史家はスフェスをレゲス(reges、王)と呼んだ)。

スフェスには軍事に関する権限はなかったが、司法と行政の権限を付与された1人か2人のスフェスが富豪や影響力をもった一族から選出された。また、軍事上の特別職として「将軍」がありハンニバルもこれに選ばれた。 また、貴族たちから選出された代議員によってローマの元老院に相当する機関である最高会議(元老院)を構成していた。最高会議は広範囲に渡る権限を有していたが、スフェスの選任が最高会議によるのか、市民総会(民会)によるかは論が分かれる。市民たちは立法権にも影響力を持っていたようであるが、このような民主主義的な要素はカルタゴを弱体化させたため、都市の統治では寡頭政治が堅持されることとなった。

宗教・風習
フェニキア人は、子供を犠牲にして捧げ物にしていたことで有名である。プルタルコスは、テルトゥリアヌス、オロシウス、ディオドロス・シクロスなどと同様に、この風習を記録に残している。ティトゥス・リウィウスやポリュビオスは触れていない。

現代の考古学上の発掘から、プルタルコスの記述が正しかったことが明らかになった。トペテと呼ばれる生贄にされた子供のための共同墓地から20,000個の骨壷が出土し紀元前400年から紀元前200年の間のものと推定されている。 骨壷には、新生児の黒焦げになった骨が入っており、中には胎児や2歳ぐらいの幼児のものもあった。これは、赤ん坊が死産した場合、最も若い子供が両親によって生贄に供されたことを意味している(ただし、この風習はカルタゴの残虐性を喧伝するローマの捏造であり、トペテは疫病で死亡した幼児の葬祭所だった、とする説もある)。

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